地下鉄小野駅の交差点を西に行くと このような橋が見えて参ります。 京都市山科区を南北に流れる山科川をわたる橋です。この橋を渡って2分ほど歩くと… 小野駅前と同じ規模の交差点。ちなみに交差点の看板には「勧修寺前」 この写真は交差点から北西を見ています。こちらに勧修寺の入り口があるのですが、寺の屋根などはこちらからではわかりにくいです。 大きなガレージが見えてくるのですが、これが勧修寺の入り口です(一応看板も立ってはいますが…) 勧修寺には、向かって右手の老人ホームにそって歩いていきます。
やっと到着。 (※この写真は明るさを補正しています) 砂利敷きの個人客向けの駐車場の横にある、優雅な垂れ幕のかかった門が勧修寺の正門です。 今回は特別展示と言うことで、その横にあるテントの方で入場券を買います。いつものことながら1カ所¥800って高いですね…(建仁寺方丈はお得感大でしたが…)ちなみに勧修寺の場合、通常料金(庭のみ見学)は¥400です。 勧修寺(かじゅうじ)は平安時代中期、醍醐天皇が母方祖母・宮道列子(みやじのつらこ)の屋敷を母方一族の菩提寺として改装したという、天皇の勅願寺。小野随心院は説明の所々にアヤシイ点がありましたがヾ(--;)、こちらはホントにれっきとした「門跡寺院」です。但し、応仁の乱以後は京都の他の寺同様に戦乱に巻き込まれ衰亡します。しかも勧修寺は何が悪かったのか豊臣秀吉には醍醐寺へのただ一回の花見に行く道を造るために敷地を削られ、徳川家康にも寺領を取られるなど、時の権力者から次々とシカトにあったのでした…。 勧修寺を現在の寺観に立て直したのはその家康の曾孫・五代将軍の徳川綱吉である。 ちなみに勧修寺の周辺の地名は「勧修寺○○町」といわれるが、この場合は「かんしゅうじ」と発音する。 毎度おなじみいい加減な勧修寺案内図 ※地図の数字をクリックすると該当の説明まで飛びます (1)明正殿 ※写真の一部をクリックすると該当個所の拡大写真を表示します。 明正天皇が使用していた御所の寝殿を移築した物。江戸時代初期の建物なのだが、やはり平安時代風味。 残念ながら今回の特別公開の対象ではなく、上には上がれなかった。 (2)客殿 明正天皇が在位寺に執務室としていた書院御殿を上記の明正殿と共に移築したと言われる。これが今回の特別公開対象で、国重要文化財。中には土佐光起・光成親子による極彩色金箔使いの壮麗なふすま絵が描かれている。 残念ながら(当然ながら?)撮影不可でしたので写真は全くありません_| ̄|○ ちなみに客殿の中のふすま絵は上図のような構成になっています。近江八景図が一番傑作といわれているのですが、この部屋が一番開け放して使われることが多かったため、絵の劣化も一番進んでいます。床の間には大名行列図が書かれているのですが、今のところ日本最古の大名行列図らしい。人物の着物など、風俗研究資料としても一級資料といわれています。 その隣が明正天皇の日常の御座所だった部屋で、竜田川(つまり紅葉)の絵が一面に描かれています。実は縁側の庄司や板戸にも土佐光成による「川に流れる紅葉の落ち葉」が書かれており、立体的な効果を考えた物だったようです。 一番奥の部屋が、おそらく女官などの詰め部屋だったと思われる暗い廊下?でここに海に面した神社・大阪の住吉神社詣での風景が描かれた「住吉図」があります。北側の一番暗い部屋なだけに、ここの絵が一番顔料も残っており、青色が今までも鮮やかです。 この御殿は小野随心院の表書院・奥書院と同じ時期の物なのですが、同じ時代でも画家が違うし、建物の雰囲気も違います。随心院はやや武家風で、勧修寺の方が正統派宮中文化なのでしょう。 ところで係員の説明によりますと、ここの絵は「幕府の許可無く外出もままならなかった明正天皇にせめて世間の風俗や旅の気分を味わってもらうために描かれた物」なのだそうです。父・後水尾天皇のあおりを食って6歳で天皇となった明正天皇は、その後一生独身で、しかも退位してからもほとんど御所からの外出が許可されませんでした。長命な両親の遺伝子を受け継いで、丈夫で長生きした人でしたが、同母姉妹にも先立たれて、晩年は孤独だったようです。゚(゚´Д`゚)゚。 彼女の人生も世界も、この客殿の畳数十畳の中で完結していったのでしょう…。 (3)灯籠 水戸光圀が寄付したとされる灯籠。「勧修寺灯籠」と言われる有名な物らしい…UP写真うつしてこなかった_| ̄|○ (4)観音堂 ※写真のお堂あたりをクリックすると観音堂中の写真を表示します。 昭和になってから建てられた新しい建物。金閣寺のパクリ?ヾ(--;) 中の観音様を見ると、あまりのアヤシサに愕然とする。 ちなみに写真真ん中近く、手前の木に隠れた石の大きな傘が、(3)水戸光圀の石灯籠のてっぺんです(^^;) (5)藤棚 池の近くにある藤棚、5/8はすでにピークは過ぎていてややしおれておりました。 ※写真をクリックすると拡大写真を表示します。 京都には意外に藤の名所が少なくて、ここは数少ない藤の名所?かも??? (6)本堂(?) 有料拝観ゾーンの外になりますが、おそらく江戸時代初期の近衛邸を移築されたとか霊元天皇の御殿を寄付されたとか言われている物です。帰宅してからネットで調査して気が付いたので、この建物の写真は全くありません_| ̄|○
この勧修寺の一番の見所は南側に広がる沼池です。 (左)東側 (右)西側 ※写真の一部をクリックすると該当個所の拡大写真を表示します。 「氷室池」という名前で、平安時代は冬にこの池に張る氷で翌年の農作物の吉兆を占ったという伝承が残っています。少なくとも平安時代の創立時期から存在した池であることは確かなようです。豊臣秀吉によって敷地をつぶされるまではかなり広大な池だったことが分かっており、寝殿造に付属した船遊びもできる大庭園だったと思われます。 この沼ヾ(--;)は大覚寺や法金剛院などと並ぶ数少ない京都に残る平安時代の庭園遺構というわけですね。 だがしかし。 今や100万都市となった京都市の中で、絶対人に脅かされる可能性がないこの池はサギの帝国と化していたのであった…上記左側の写真中央近く、一本立ち枯れた木が分かるであろうか。これ、サギの糞害によって枯れてしまったらしい(○。○) 鵺の鳴く夜に匹敵する?中島を占拠するサギの様子は左をクリック。(5秒、画像めちゃ荒) かつてこの池は周囲を一周することが出来た(事実私も4年前に来たときには一周したような記憶がある)のだが、今では危険で一周できないらしい…。お寺が設置した「危険!池を散歩するなら自己責任で!」というへぼい看板が池の周囲に立っているのもむなしい…。もっともサギに襲われる+藪蚊が多そうなので今回私は池の周りを回っていません(^^;) 池と御殿の間は、このように芝生が広がり、本日のように季候のいいときには非常にのんびり出来ます。 ベンチもあるので、まったりお茶など飲んでくつろぐのもいいかと思います(但しゴミはちゃんと持って帰りましょう。お寺内にはゴミ箱がありません!)
山科には、この勧修寺のように醍醐天皇とその母方である藤原(勧修寺家)関連の史跡が非常に多いです。醍醐寺もその一つです。平安時代の天皇は現在の仁和寺近くに墓のある人が多いのですが、醍醐天皇と嫡孫(皇太子だが夭折)・慶頼王、息子の朱雀天皇の墓はすべてこの近辺にあります。 平安時代に興味のある人は、京都市中を回るより、案外とこの辺を回った方がおもしろいかもしれません。 でも全く観光地じゃない場所で、休憩場所もないし、案内板も少ないので、事前の学習は忘れずに!
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