訪問は5/1。平日とはいえGWのまっただ中だったため、バスが全く動かずなかなかたどり着けませんでした_| ̄|○
建仁寺は日本最古の禅寺で、京都五山の一つです。正式名は「東山建仁寺」(とうざんけんにんじ)。 建立は日本有数の有名僧侶で必ず教科書に出てくるあの栄西、開基は鎌倉幕府2代将軍・源頼家とされています。…頼家縁の寺だったんですね(知らなかった) 建立当初は八坂神社の近所で都の中心からやや外れ、南に行けば六波羅、東に行けば清水寺、とまあ禅寺が建つにはふさわしい場所だったんでしょう が、 江戸時代にこの近所は遊里として開発されてしまい、現在では寺の回りは芸妓置屋やスナックやラブホが乱立する…という、禅寺としてはもっともふさわしからぬ立地になってしまいました(^^;)
もっとも最寄りの交通機関は京都市バス「祇園」バス停です が、上記に書いたように行楽のトップシーズンでは全くバスが動かない状態が頻発しています。この時期に大阪方面からお越しの方は、私鉄の阪急電車「河原町」下車か京阪電車「四条」下車で東に向かって四条通りを歩いた方がよっぽど早いです。商店街の魅惑のウィンドウショッピングに引っかからないようにね(^^;) 他の地域からお越しでとりあえずJR京都駅に着いてしまった方は…地下鉄に乗って四条で阪急電車に乗り換え、以下は上記同様に河原町駅から歩くと速いです。間違っても京都駅発のバス(特に206系統)に乗車しないように!延々と積み残されるか、乗れたとしても圧死寸前の状態になります。 四条通りは歩道も混雑していますので、訪問前に荷物はホテルに預けて置かれるのがよいでしょう(この時期JR京都駅のコインロッカーも満杯になりますので注意)。 また、自転車を利用して京都をうろうろされている方へ。 四条通りの四条烏丸〜八坂神社前歩道は自転車での通行禁止になっています。自転車は押して引っ張ってください。
で、祇園バス停から四条通りをやや西に戻ると有名なこの場所 一力茶屋 「忠臣蔵」で大石内蔵助が豪遊した場所として必ず出てくる場所…なんですが、実際は京都有数の祇園の御茶屋で連日豪遊する金はさすがに大石にもなくて、格下の伏見の中書島あたりの遊郭で遊んでいたらしいです_(。_゜)/ ちなみに中書島は坂本龍馬や幕末の薩摩藩が利用していた寺田屋がある場所として有名ですね。 ちなみに現在も営業中ですが、紹介がないと利用不可能(一見様お断り)です。 この一力茶屋の角を南に曲がると建仁寺への道です。わかりやすい。 もっとも「京都らしい場所」としてよく写真にも出てきます。 ここを歩かない観光客は少ないんじゃないかな?地元の人はあまり歩かない場所であったりするんですが(^^;) この道に面して 祇園甲部歌舞練場(八坂女紅場) 毎年春と秋の芸妓・舞妓の「都おどり」が開催される場所として有名。運が良ければお稽古後の芸舞妓さんに会える(かも) … しかし一方で WINS京都(場外馬券売場) も、この風情ある道に面して建っていたりする…運が悪ければ大荒れのおっちゃんに絡まれる(かも)。 重賞レースの開催される日は近づかない方がいいでしょう(だから地元民はあまり来ない道なのだ) このWINSの前を通過すると、建仁寺の北側入り口となります。正門は南側にあるので、つまり裏口から入ったことになるんでしょうか(^^;)
毎度おなじみあてにならないいい加減な建仁寺境内図(^^;) ※該当個所をクリックすると説明に飛びます。
まずは本坊を見学することにします。正確な場所はこちら(goo地図)。 実は見学は本坊だけかと思っていたのですが、ここに法堂、浴室も付いていたのでものすごく見るところが多く、 結局他の公開中の塔頭(両足院、久昌院)はあきらめました_| ̄|○。「長篠合戦図屏風」見たかったけどなあ。 本坊ではお茶の接待(別途料金¥500)の他、庭を眺める休憩所もあって非常にまったりした雰囲気。 休憩所から見える庭はこれ 回廊で囲まれた中庭。※クリックすると拡大写真 いつもなら非公開文化財拝観恒例のうざい説明があるのですが、ここは広すぎるためか説明する人も少なく、ゆったりと見られます。 方丈(全景) 左:法堂へ行く回廊から写した物 右:法堂から写した物 国重要文化財で、慶長4年(1599年)に毛利氏の外交僧で大名でもあった安国寺恵瓊(あんこくじ・えけい)によって安芸国(現・広島県)の安国寺より移築された物である。青銅板葺きの屋根は珍しいかも。 ちなみに方丈を取られちゃった(^^;)広島の安国寺は現在こうなっています。 建仁寺も他の京都の寺と同様、戦国時代に焼けてしまったが、その再建に深く関わったのが安国寺恵瓊である。建仁寺は海北友松の掛け軸や襖を多く所蔵する寺であるが、これは海北友松が安国寺恵瓊と知己であったからといわれる。今回海北友松の襖と掛け軸(国重要文化財)は特別公開されていた。 ちなみに安国寺恵瓊は安芸武田氏の末裔、海北友松も浅井家家臣の生き残りという「没落武士の末裔」という共通点を持っている。 ちなみに現在方丈にはめられているのは明治〜昭和にかけて活躍した橋本関雪の襖である。 方丈の南庭「大雄苑」 左:東側より撮影 右:西側より撮影 個人的に一番絶景と思う 東回廊の火頭窓から見た「大雄苑」
方丈の北側に回ると、「北野大茶会」で使われたという有名な茶室「東陽坊」がある。こちらは所定の場所から庭に降りて備え付けのつっかけに履き替えて見学できる。 木立の向こうに見えるのが東陽坊 実は、この周囲の庭は改築中。庭師さんがうろうろする中、肩身狭く見学する羽目になってしまいました。一部の庭は掘り返して見苦しかったので撮影しませんでした。 そういえば有名な「建仁寺垣」も撮るの忘れた_(。_゜)/ 東陽坊は千利休の弟子・真如堂東陽坊長盛が天正15年(1587年)豊臣秀吉の「北野大茶会」のために副席として作った物といわれる。となると現存最古級の茶室と言うことになる。但し、人から人へ転売を重ねるたびに改造(改悪?)がされて、現状で当初の姿をとどめているのは床の間の作りだけらしい…。 左:勝手側に作られた茶室・三畳席。炉の代わりに丸炉がある 右:本席二畳台目席(手前座側から床の間を見る) ※フラッシュ撮影をしなかったので、暗くて申し訳ありません<(_ _)>
この茶室近くに安国寺恵瓊の首塚があります。 三条河原にさらされていた安国寺恵瓊の首を建仁寺の僧侶が葬った物だそうです。建仁寺と恵瓊には縁があったことから徳川家康も特に罰さなかったらしい。しかし、自分が寄付した建物の裏にその1年後に葬られるとは安国寺恵瓊は予想してなかっただろう。 ちなみに安国寺恵瓊と縁が深かった京の禅寺は建仁寺だけではなく、東福寺の216世住持でもあった。ちなみに東福寺は島津氏と縁深い寺であるが恵瓊と島津氏が交流していたという史料は管見ではほぼ皆無である。
方丈を一通り見た後は渡り廊下を通って法堂(はっとう)に向かいます。やはり所定のつっかけ(^^;)に履き替えるのだが、いったん方丈の外に出るのでやや不安になる。 しかも方丈と法堂の間の門には自動ロック装置が付いているのだが、その門たるや腰の高さまでしかない柵なのである。防犯の意味無し!ヾ(^^;) これが建仁寺の法堂(東南方向より撮影) 建物は明和2年(1765年)に建てられた、比較的新しい物です。 中には釈迦如来・迦葉尊者・阿難尊者という珍しい形式の三尊像が奉られ (左奥の暗い空間には建仁寺開山・栄西の像があるらしいが暗くて全く見えず!) 天井には平成14年に書き上げられたばかりの出来立てほやほやの竜図。ちなみに作者は小泉淳作氏。
この後、いったん本坊に戻って外に出て、三門近くにある「浴室」に向かいます。 禅寺では入浴も修行の一つとされていましたが浴室まで残っている禅寺は少ないのだとか。ちなみに建仁寺の物は寛永5年(1628年)に三江和尚により建てられたとされる。 外観 入ったところで番台のおばちゃんならぬフロの神様?がお出迎えしてくれます(^^;) その横は上がりかまちとなっており、ここで修行僧たちは湯上がり休憩をしたらしいのですが、その上には… …落ち着いて風呂にも浸かれません_| ̄|○ もっともここの風呂は「蒸し風呂」だったようですが。 僧侶5人も入ればぎゅうぎゅう?の風呂部屋 この壁の反対側に風呂釜があり、ここでお湯を沸かして上記の風呂部屋に蒸気を送っていたのです。わかりにくい人のために横に模型が置いてありました(^^;)。
その他の建仁寺の名所 三門(望闕楼) 南禅寺や東福寺のそれと比べると小ぶりである。 ※内部拝観不可、周囲に柵があるので門をくぐることもできません。 開山堂 開祖・栄西を祀る。 しかし塔頭と言うより寺の中に寺が建っている印象を受ける。ここがあの祇園のど真ん中とは思えない奥行き。 ※拝観謝絶
その他茶栽培を広めた栄西を記念してたてられた「茶碑」(周囲の生け垣もお茶の木?)などがあります。 日頃は拝観謝絶している塔頭がほとんどなので祇園に来ても通過か無視する人が多いかと思いますが、祇園の真ん中にこういうスペースが占められているというのは、地元民の私でもオドロキでした。
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