伊賀上野城の南側は文教地区になっていまして小学校、中学校、高校が並んでいます。この建物が瓦屋根で、天守閣から見たらまるで武家屋敷に見えるのだな。 その写真を撮ってなかったのが非常に悔やまれます。(T_T) そのうちの一つ・三重県立上野高校。 この古そうな建物、やはり三重県指定文化財になってました。明治時代に建てられたもの。三重県も結構空襲にあった土地のようで、いくつか残っていた高校のうち、この伊賀上野は田舎だったために免れたらしい。 ちなみにこの高校、俳優・椎名桔平や歌手・平井堅の母校でもある。まあまあ進学校らしいです(知らなかったよ)→こちら
この上野高校の前の道を西へ行くと「崇広中学校」が見え、その一角に国指定史跡「崇広堂」がある。 崇広堂通用門(現在の受付) ※中学校の校門とは全く別なので注意 実は津藩の藩校「有造館」は本城のあった津市にあり、ここはその分校という扱いだったらしい。しかも今残っているのは当時の1/2ということだがそれでも結構広い。岡山の閑谷学校などとならぶ、現存する数少ない藩校である。 ややいい加減な崇広堂案内図 ※数字をクリックすると写真の出るところがあります 1:書庫 現在は倉が1つ残るのみ 2:勝手口 台所などを管理する使用人が出入りする入り口 3:大玄関 生徒の使う玄関、現在の見学ルートもここから出入りする。 4:小玄関 実は正式な玄関はここ。藩主はここから出入りした。かなり質素である。 5:講堂 いわゆる教室で畳40畳敷きぐらい???広い部屋で現在の大学のような講義を行っていたかと思いきや、進捗に応じてバラバラに指導していたそうな。結構騒がしかったんでは?教室にはいるのには廊下を使わず庭に面した階段から上がってきていた。 6:有恒寮 遠距離で通えない師弟のための寮。現在残っているのは一部分のみ。相部屋だったらしい。 7:お風呂 …かなり狭かったです。流し場も無し?ちなみに反対側に焚き口があります。こちら 8:流し 当然この時代にはシステムキッチンじゃ無くってよ奥様ヾ(^^;) おくどさんのでかさに対して流し場は小さかったのだが、これで大丈夫だったのかな? 9:竈 生徒や先生の燃料ヾ(^^;)を補給する大事な場所。給食制だったのね、ここ。 10:便所 これは発掘結果などから現代復元されたもの。「使用禁止」と書いてあるのに、使う馬鹿が後を絶たないらしい…ちなみに現在のホントのお手洗いは「14」の位置にある。 11:長屋門 現在の見学受付もこちら。発掘で出土した土器などもこちらに展示されている。 12:中庭 廊下で囲まれた中庭。 13:控え所 藩校教師の控え所、今でいえば職員室だが、一番東端の部屋は藩主来校時の御座所ともなった。唯一床の間のある部屋である。でも質素。 15:御成門 元々は有恒寮の北側にあったが、現在はこの位置に移築された薬医門で、この崇広堂の正門である。藩主来校時にしか開けられない「開かずの門」であった。
ともかく、部屋の中には余分な修飾もなく、実に学校らしい「質実剛健」な建物でした。 この藩校を建てたのは10代藩主・藤堂高兌(1781〜1824)だが、上杉治憲(鷹山)に私淑していて、藩校の看板も治憲に書いてもらったものだそうです。講堂にかかっている「堂廣崇」というのがそれ。 しかし、一番びっくりしたのは、この建物を昭和58年まで市立図書館として使っていたということでしょう。畳敷きの図書館…。
崇広堂を見た後は前の道をそのまままっすぐ西に向かって歩きます。講談「鍵屋の辻」で有名な仇討ち決闘事件の舞台となった「鍵屋の辻」がそのまま公園となって残っているのです。「鍵屋の辻決闘事件」については今や知らない人の方が多いと思うのでこちらとかこちらを参照。私は○○年前にNHKの正月時代劇で見たことがあります(江戸時代初期のまだ殺伐とした空気とか、武士社会の理不尽さ加減が良く描けていて、今のNHKからは考えられない良作でした) お城の前の道(ちなみにスーパー農道国道25号線)は鍵屋の辻に向かって急傾斜の下りで道は屈曲しています。仇討ちで待ち伏せするには格好の場所であったのが今でもわかります。 現在も交差点北西角に残る「左ならみち右いせじ」の巨大な石碑。 南東角にある伊賀越え道記念碑。 神社ではなくて「伊賀越え道 鍵屋の辻資料館」 ※今回ここには入りませんでした。 ともかく公園(特に「伊賀越え道記念碑」のある空き地)が妙な場所にあるので見通し悪くて事故多発地帯なんじゃないかなあ、と思いました。かなり交通量が多いので写真を撮るときには要注意。その分、アスファルト道ながら昔の街道の雰囲気が残っているわけですが。 ちなみにこの公園にある茶店も、江戸時代初期から営業しているところらしい(ここにも入らず)
では旧街道などを通りながら、上野市駅まで戻ってみることにします。 べんがら格子の風情のある建物(ちなみに組み紐屋でした。伊賀の名産の一つが組み紐) 伊賀上野城・西大手門跡より崇広堂を見る 道の所々にはかつての城下町や宿場町だった雰囲気が残っていて実にいい のですが 手頃な休憩場所がないのには困りました。かつて藤堂藩第2の町であった伊賀上野も、現在ではJRの駅は市内よりはるかに遠く(どっちにしろ1時間に1本しかない)、近鉄の方も1時間に1本で、にぎわいとしては虐げられた支藩のあった名張の足元に及ばないかも…。ただし、かつて街道筋だったことが幸いし?名阪国道が通っているので地元の人は生活には全然困ってないようです。ただしそれも自家用車があればの話ですが。帰宅してから調べたところ、マクドナルドもミスタードーナツもコンビニも車でしか行けないような郊外にばかり有るようで…(T_T) 学校の建物といい、町並みに気を使っているのは非常に感じられましたが、休憩場所にめぼしいところがないのでは、ちょっと貧弱という気が否めません。 私はのどの渇きに耐えきれず、この店にはいったのですが、女性一人客の対応になれていない(というか嫌がっていた?)のが見え見えで、人から見えないようなものすごい奥の席に隔離されるわ、ケーキセットにアイスコーヒーを頼んだら何回も確認していたのにホットコーヒーを持ってくるし…(-_-#) … 今回は行けなかった忍者関係の施設や松尾芭蕉の史跡など、結構コンパクトに観光スポットが集まっているものの、なんかいまいち一押しできない町、という後味の悪い印象が残りました。
夕刻になって日も陰ってきたので、伊賀上野から脱出することにします。 京都方面は近鉄よりJRの方が早いです。料金はあまり変わりないですが。伊賀上野中心部からは上野市駅(上野産業会館)から近鉄か三重交通にのるとJR伊賀上野駅まで行けます。市内中心よりはかなり離れているので間違っても歩こうと思わない方がいい。 JR+近鉄伊賀上野駅 見てのように、近鉄上野市駅より更に寂れています。周りにはバス停以外何もないといっても過言ではありません。ただし売店と自販機、「みどりの窓口」はあります。JR西日本管区ですがICOKAやJスルーは使えないので要注意。 明治の頃には鉄道敷設に反対する人が多かったので、こんな町中から離れたところに駅ができたんじゃ無かろうか、と推測。 ただし、思いの外ここを使う人は多いようで、ディーゼルワンマンカーが来たら席は全部埋まってしまいました。中にはどう見ても旅行客の欧米人発見。…何がうれしくて伊賀上野なんかにきたのだろうか。やっぱりニンジャごっこ? 実は関西生まれ関西育ちの割に生まれて初めて関西本線を利用したのですが(^^)ゞ、何ともいえない独特の雰囲気のある路線でした。私鉄のローカル線でこういう雰囲気の所はないのではないだろうか。明治学院大教授の原武史氏は子供の時、伊勢に旅行したとき近鉄ではなくこちらを使ったのだが(※関西本線は4?年前すでに超ローカル線であった)その雰囲気に魅せられて鉄道研究を通じた日本近代史研究をしようと思ったそうだ。その気持ちは乗ってみると非常に納得できる。 ただし、現在では原武史氏が利用したときよりまた更にローカル化が進んでいて_(。_゜)/京都方面に戻るにはこの後2回も乗り継ぎしなければいけなかったのだった…。 一回目の乗換駅・加茂駅 大阪方面への電車も多い。 こちらが亀山〜加茂間のワンマンディーゼルこっちが大阪方面。(ホーム時刻表にも注目) この後次の駅「木津駅」で再度乗り換え。ここでは非常に連絡が悪く20分も待たされる_| ̄|○ 結局伊賀上野から京都に戻るには2時間かかりました。
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