青山町駅には余りにも何もなかったので(^^;)そのまま折り返しの電車に乗る。
ちなみに隣の駅はこんな感じ 伊賀神戸駅(電車内より撮影したため、画像がお見苦しい点をお許し下さい) 「忍者」「鍵屋の辻」で有名な伊賀上野市に行くにはここで乗り換え。しかし、伊賀上野方面はするっと3day対象外のため、このまま通過する。 写真で見える青い小さな電車が伊賀上野市方面行き。この写真では柵で見えないが、松本零士氏デザインによるくのいちの目が正面に書いてある。結構怖い。 追記:翌年の春に伊賀上野市(現・伊賀市)も訪問しました。宜しければレポート御覧くださいませ<(_ _)>
青山町駅から4つ隣りの駅「名張」で途中下車。ここは大阪方面への特急も停まる割と大きな駅である。 (左)北口 旧市街側の駅舎。 (右)南口 ニュータウン行きへのバスターミナルにつながる新駅舎。コンビニもある。 ここで途中下車したのは、夏見廃寺を見たかったからである。この寺は大伯皇女が父・天武天皇の菩提を弔うために建立したと書かれている”昌福寺”ではないかと言われている。最も、昌福寺は父・天武天皇の菩提というのはカムフラージュで、実は謀反の疑いで自殺した同母弟・大津皇子の菩提寺だったという説がある。 ところがここが下調べをしなかったつらさ(T-T)夏見廃寺へ行くバスの系統がさっぱり分からないのである。こう言うときにはありがたくコンビニ利用。が!地図を立ち読みするがやっぱりよく分からない_| ̄|○。 で、時間も3時半をまわり、夏見廃寺は無理とあきらめ(TOT)、徒歩で行ける藤堂氏の屋形跡に行くことにする。 そう、ここは津藩藤堂氏の分家の領地だったところなのである。 夏見廃寺へは南口からバスに乗る必要があるが、藤堂氏の屋形は北口から山勘でヾ(--;)駅横から出ている大通り(と言っても2車線)を北へと向かう。山勘は当たって、徒歩10分で「藤堂氏館跡」の看板が見えてきた。学校のあるやや小高い坂を登る。 藤堂氏館跡(正面) 玄関前では管理人らしい人が落ち葉掃除をしていたため閉館かと思って聞いてみると、まだ大丈夫とのこと。ということで一寸上がらせていただきます。入場料は¥200。 管理人の方の簡単な説明によると… この名張藤堂家というのは実は藤堂家の血縁ではなく、そもそもは丹羽長秀の息子・仙丸が豊臣秀長(※偶然にもさっき見学した大和郡山城の城主だ)の養子にもらわれたことに始まる家である。と言うのも、秀長には実子が無く、また、秀長の兄・秀吉も丹羽長秀を仲間に入れるため、政略としてこの養子を押し進めたのだそう。 が、丹羽長秀が死に、秀吉の天下が固まると、秀吉は秀長の跡を赤の他人の仙丸が継ぐことが鬱陶しくてならなくなってきた。義理がたい秀長は兄の意見に反対していたのだが、秀長が亡くなると秀吉は甥の秀保に秀長の跡を継がせたので仙丸は宙に浮いてしまった。その仙丸を引き取ったのが秀長の家臣であった藤堂高虎なのである。その後、仙丸は「藤堂高吉」と名乗り、藤堂家の跡継ぎとなった、はずであった。ところが、高虎にも晩年に子供(後の2代藩主・高次)が生まれたため、高吉の立場は又不安定な物となってしまった。朝鮮出兵や関ヶ原の戦いで功績を挙げていた高吉を徳川家康はどうも独立大名として扱おうとしたようなのだが、その後は次第に藤堂氏の家臣として扱われるようになっていったらしい。高吉はせめて「支藩」として扱われるように幕府に働きかけたが、藤堂本家の妨害に合い、この名張で逼塞するように92歳の生涯を終えたのだという。 その後、高吉の子孫は都度都度幕府に働きかけを行い、それは享保年間まで続くが、結局実を結ぶことが出来ず、明治維新に至ったという。 …めちゃめちゃつきのない可哀想な人じゃないですか。・゚・(つд∩) ・゚・ 。 そういえば、名張市自体、三重県にあるにもかかわらず、経済的な結びつきは三重県よりも大阪の方が強い。電車も大阪行きの方が多い。こういう歴史的なことが反映しているのかな?とも思いました。 ところで、この屋敷も明治維新後は縮小が進んで奥の数部屋分しか残ってない(写真で見えている門は付け足しで、今玄関と言っているのは実は表御殿との渡り廊下だったところ)状況です。本当は向かいにある小学校も全部藤堂氏のお屋敷だったのですね。でも今残っている部分だけでも一般住宅より遥かに広いですが。 では、屋敷の中を一寸案内。 (1)茶室「清閑楼」:6畳の茶室です。が、茶道口がいきなりセオリーに反してます。これでは何回も曲がらないと上手く手前座につけないのですが…。床の間+違い棚の奥行きが異様に狭い。 (2)雪隠:茶室の奥に隠れるようにトイレがある。小用と大用。畳敷きなのがさすが虐げられた分家とはいえ一応藤堂家の屋敷であることをあらわしている。 (3)風呂:雪隠の隣が風呂。どうも湯船らしき物がないところを見ると蒸し風呂だったのか?詳しい説明が無く謎が残る。 (4)小座敷(中奥の間):8畳×2の床の間つきの座敷が二つつながっている座敷で、殿様の日常生活の場だった。こちらは奥の座敷のほう。 (5)祝いの間:10畳以上の広い座敷が2つつながっており、現在は名張藤堂家関連の文書や武具を展示するスペースとなっている。 (6)庭:現在は四方を広い庭に囲まれているが、実際に庭だったのは茶室と中奥の間に囲まれた西北角の物だけで、この写真で撮している南東角は本来は「琵琶の間」にあたる建物が建っていた。その跡は木が植えられず白砂であらわされている。 ゆっくり鑑賞しても30分あれば足りると思います。何回も火事にあった後、宝永7年以降(1710年〜)に建て直された物の一部と言うことですが、非常に質素なのが印象に残りました。かなり後世の建物ですが二見賓日館の方が遥かに立派な建物であるとは言えます。 ここを去るときには、何とも言えない重い気分が後に残りました。 名張はあの観阿弥が初めて能楽を公演した場所でもあるそうなのですが 名張駅北口の駐車場の隅っこにある観阿弥像 かなりめだたない。さびすぃ。 かつて名張藤堂氏の”城下町”だった北口側の方は寂れた地方都市で、南口の方は開発が進んだ明るいニュータウンです。 その中途半端さが藤堂高吉の人生にも重なるような、重ならないような。
この後は名張駅から近鉄電車に乗り、難波→MUJIブロッサムアウトレット(^^;)→自宅 と帰りました。 この途中でえらい落とし物をして大変なことになってしまいましたが(^-^; 無印レポートはこちらにて。