ばんない写真館
新御車寄の隣(東側)に、今までの和風かつ公家風?の建物とはちょっと毛色の違う建物が見えます。
月華門(げっかもん)です。
ひわだぶきの屋根ではなく瓦葺き、柱も朱塗りです。
京都御所で最も大きく、かつ重要な正殿である紫宸殿へ行く西門となっています。但し一般公開ではここを通らず、大きく迂回して東側から入ることになります。
今まで余り気に留めてなかったのですが、
軒瓦にすべて皇室の菊の御紋が入ってます。なんとなく無紋かと思っていたので意外。
ここを塀沿いにぐるっと南に回ると
建礼門(けんれいもん) ※写真右側のひわだぶきの門
『平家物語』の悲劇のヒロイン・平徳子の門院号の由来になった門です。
この一角は平安時代の宮殿の古風を残そうとしている気配が伺えます。
参考に
こちらのサイト(平安京探偵団)の「平安京大内裏図」と
現在の京都御所内裏の配置を比較するとなかなか興味深いです。
建礼門のすぐ北向かいにあるのが
承明門(しょうめいもん)です。
※写真をクリックすると門額が見えます
建礼門のひわだぶきに対して瓦葺き朱塗りで対照的です。
更に塀沿いにぐるっと東側に出ると、大きく開けた場所に出ると、その向こうに建礼門とよく似た門が見えます。
建春門(けんしゅんもん)です。
この門は先述の建礼門院平徳子の親戚であり後白河法皇の妃の一人だった平滋子の門院号の元となった門です。
この広場の北側に神社の本殿のような異様な建物があります。
春興殿(しゅんこうでん)です。
平安時代の大内裏から同名の建物はありますが、今は場所も平安時代とは変わっており、しかも屋根も瓦葺きでもなくこけら葺きでもなく、青銅板葺きという異色の建物です。
中の見学は出来ません。
広場の西側に面しているのが
日華門(にっかもん)、その北側にあるのが
宜陽殿(ぎようでん)
塀に囲まれた中に大きく見える屋根が
紫宸殿(ししんでん)です。
日華門の名前は、先ほどの月華門と対になっていると思われます。
宣陽殿は平安時代の大内裏にも同名の建物がありますが、場所が紫宸殿の東隣とややずれているようです(平安時代は紫宸殿から見て東南)。
この日華門から
紫宸殿前に入場します。
左:東側から 右:西側から
さすが京都御所の主殿だけあって堂々たるたたずまいです…といいたいのですが、これは何回もの立て直しの末この規模になっていったと言うことで、江戸時代初頭は
かなり小さかった(慶長再建の紫宸殿(現在仁和寺金堂(国宝))らしい…
軒下の作りとか
すごいです
紫宸殿ふすま絵(こちら側からは見えず、清涼殿側から見られる)の絵は大和絵とも言い難い独特の公家風の物で、ここにも古風を重んじるこの空間の主旨が現れています。
ここに、現在の天皇陛下の即位式の時にも使われた「高御座」「御帳台」が鎮座されています。平成の即位式ではこんな巨大な物を東京まで持って行かなければならず非常に大変だったそうで。
ちなみに紫宸殿の真ん中にある八角堂が「高御台」で天皇用、向かって右横後方にある八角堂が皇后用の「御帳台」です。当然紫宸殿には一般参観客は登れませんので(T-T)最大望遠で取ってこれです。
一見同じような作りに見えますが、屋根などの作りが微妙に違ったような記憶が…。
この紫宸殿の向かって左の壁を通り、北側にある
清涼殿(せいりょうでん)
に向かいます。紫宸殿と並んで平安時代大内裏からの名残を残す重要な建物の一つで、平安時代には天皇の寝所だったそうですが…もちろん江戸時代には居住性が悪いので日常は別の御殿を使い、ここはもっぱら儀式用だったそうです。
壁を通ったところはこんな感じ
ところで。
ここでこんな大混雑の中、この場所に
どこぞのマスコミが
陣取って撮影していて、
はっきり言って非常に邪魔!でした。一般公開の様子を写すのならともかく、御所自体の取材だったようだし。別の日に単独で予約取ってやれよ…
…気を取り直して
この清涼殿は、先ほどの紫宸殿以上に平安時代の遺風を残そうとしている建物です。
例えば御帳台(写真
1、
2 ※紫宸殿の皇后玉座と同名ですが、こっちが本来の御帳台(=天皇寝室)です)、
年中行事表(上の写真でも写ってますが)、
縁側に建てられたついたての絵も江戸時代に主流だった狩野派風ではなく、
古典的な大和絵風です。
こんな名前も残っています
清涼殿北側の渡り廊下の中庭ですが「
滝口(たきぐち)」という特別の名前が付いています。…そう、「滝口の武士」の”滝口”です。平安時代は天皇警護の侍の詰め所になっていました。もちろん江戸時代はここに武士は詰めてないでしょうが、名前だけが残ったのです。
では清涼殿の中庭からぐるっと一回りの図
※クリックで拡大します
※次に
幕末史に名高い小御所や御所の庭園へ向かいます。