ばんない写真館
実相院とこれから向かう岩倉具視幽棲住宅は数百mぐらいしか離れてません。
ちなみに、岩倉具視は一時期実相院に幽棲していたこともあったとか。
ちなみにこの案内看板が立っていたのは
このあたり。powered by mapionbb
細い道ですがわかりやすいので、実相院から歩いて数分で到着しました。
木幡の時とはえらい違いだ。
ちなみに実相院はこれまで行ったことがなかったのですが、こちらは小学校の社会見学以来○○年ぶりの訪問になります。…あんまり変わってなかったように感じたのはいいことなのか悪いことなのか(汗)
現在は白い漆喰塀も巡られされて立派になっていますが、岩倉具視が追われた時には地元の大工の納屋があっただけだったそうです。その納屋を具視は買い取って仮の住居としたわけです。当初は寝泊まりするだけでも大変だったことでしょう。
※写真クリックで拡大表示
その後、現在も残るかやぶき屋根の母屋を建てたりして整備し、徐々に暮らしやすくしていったようです。隠棲生活の末期には倒幕の志士達がここを訪問したりして密談するなど「隠棲」という言葉とは裏腹になかなか賑やかだったようです。その様子は大河ドラマ『翔ぶが如く』で描かれているのでご存じの方も多いかも。
具視のこの地での生活は文久2年(1862年)から慶応3年(1867年)の5年間でした。
母屋と付属屋(大工・藤吉から購入した元納屋)を対岳文庫側から
※それぞれの建物をクリックで拡大表示
左(南側):母屋
元治元年(1864年)に増築。茅葺き平屋建ての農家…と思いきや、中の座敷は書院造りで床脇のふすま絵は岸恭(
実相院の戸袋を書いた岸駒系の日本画家)によるもの、玄関には式台があるなど中味は公家屋敷となっている。
明治5年(1873年)にはその当時非常に珍しかったガラス障子を拝領(大宮御所からの移築)。
右:付属屋
先述したように地元の大工が使っていた納屋を急遽購入した物で築不詳、見て分かるように本当に倉庫である。部屋の他には台所などとして使用しておりおくどさんなどがあったが、既に修理中で中に入れず詳細不明。
速報版でも書きましたが、この付属屋の裏、ヤブ蚊がものすごかったです…まだ五月だったのに。
岩倉具視が隠棲していたときにはこの2つの建物だけだったのですが、その後大正3年(1914年)に岩倉家から地元(当時の京都府愛宕群岩倉村)に寄贈され、昭和3年(1928年)に具視を顕彰するための資料館が隣に造られます。
その資料館が「対岳文庫」です。武田吾一の設計による物で国登録文化財となっています。
所蔵品は幕末〜明治の政治状況を伺えるような一級資料がそろっています。ただみてのとおりの小さい建物なので、その一部しか展示できてないようです。しかも展示の仕方が書簡はショーケースに並べるだけとか工夫がない、というか建物の都合上工夫できないのかも(苦笑)。
天井の方に東伏見宮妃周子(具視の孫娘)による欄間額がかかっているなど、華族マニアにもお勧めのスポットです。ただこちらは通常一般公開してなかったような記憶が…。
再び母屋の前に戻ると、母屋の南側の目立つ位置に何故か墓があります(○。○)
これが岩倉具視の遺髪墓です。
井上毅による碑文が書かれています。
※墓標クリックで拡大写真
遺髪墓の横に更に墓が…と思っていたら、こちらは岩倉具視の顕彰碑でした。碑文によると建立したのは井上毅と大久保利武(大久保利通の息子)によるようです。
裏までびっしり文字が刻まれていますが長文で全部は解読できませんでした(^^;)
※石碑をクリックすると裏を表示
母屋の南側にある庭にあった松。
岩倉具視お手植えの松、らしい。
ちなみに岩倉具視幽棲旧宅、かなりガタが来ていまして(母屋とか床が抜けるんじゃないかというくらいぼこぼこでした)、今年から4年間の大規模修理に入るそうです。しばらくは通常見学も出来ないかと思いますので、
行く予定のある方は事前に確認を。
次に今回本邦初公開の寺院・心光院に向かいます。
続く。