ばんない写真館
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「森嘉」でお揚げを買った後、清涼寺に向かいます。
嵐山観光の名所の一つ・清涼寺仁王門
建物自体は1776年(安永6年)の物のですが、仁王様は室町時代の物とされています。
しかし写真を見て分かるように、観光シーズンのため、大変に人が多い状態です。
清涼寺とはどんなお寺?
清涼寺の正式名は「五台山清涼寺」…だが、交差点の名前にもなっている「嵯峨釈迦堂」の名前で有名。
その名前の通り、この寺の本尊は釈迦如来で、現在の本尊は創建当初の物ではないが、宋から招来された舶来物の珍しい仏像で国宝に指定されている。
前身は平安時代初期の貴族(元皇族)の源融(別名「河原左大臣」)が実父・嵯峨天皇より隠居地の一部を下賜され、融の死後、895年(寛平7年)に菩提所として「棲霞寺(せいかじ)」阿弥陀堂を建てたことに始まると寺伝では伝えられている。945年(天慶8年)に醍醐天皇皇子・重明親王の后がその地に釈迦堂を建立。(ちなみに重明親王は死別→再婚して2人の后がいるが、この后が先妻・藤原忠平女・寛子(906年〜945年)か後妻の藤原師輔女・登子(?〜975年)のどちらに当たるかははっきりしていない。)
その後、宋の五台山に留学していた東大寺の僧・「然は、中国でインド招来といわれる釈迦像を模刻させ、986年(寛和2年)日本に帰国する。この仏像こそが、現在国宝とされている「釈迦如来像」そのものなのである。「然は棲霞寺にこの仏像を納め、ここを天台宗に比べて退潮著しかった南都仏教の京に於ける本拠地にしようというもくろみがあったようである。しかし、その野望は達せられないまま1016年に死去。その後、弟子達が「然の遺志を継いで棲霞寺に堂を建立し、上品蓮台寺に預けられたままだった釈迦像を移したのである。これが「五台山清涼寺」で、当初は棲霞寺の一塔頭のような存在に過ぎなかった。
その後、幾度もの火災に遭い、特に応仁の乱の被害は甚大だったが、復興される。近年発見された狩野永徳筆とされる「洛外名所遊楽図屏風」には再建なった清涼寺を足利義輝一行が見物している様子が描かれている。ところがこの建物も又焼失してしまい、豊臣秀頼によって再建される。が、それからまもなく、火災や地震により再び堂宇を失ってしまう。この時の再建を行ったのが、あの「犬公方」徳川綱吉の母の桂昌院である。今見ることが出来る本堂は、この桂昌院の寄付によって建てられた物である。また、この桂昌院の寄付の際に江戸で出開帳を行い、この時の江戸の庶民の寄付金で建てたのが、今見られる「多宝塔」である。その後も名「仏」のお釈迦様の信仰と上下問わない人々の寄付により、現代に至るまでいろんな物が新築されたり再建されたりして、どこまでがほんとでどこからがうそなのかヾ(--;)いとうせいこうやみうらじゅん的にはおいしいかなりカオスなお寺となっているのであるヾ(^^;)
境内写真
左端が多宝塔
その右横の石塔群が嵯峨天皇夫妻の墓(伝)
その奥が鐘楼
写真右手奥の大きな建物が本堂
では、清涼寺の境内をご案内
恒例のど下手で縮尺もめちゃくちゃの清涼寺境内図 ※クリックすると該当場所の説明に飛びます。
愛宕権現社
慶俊上人が鷹が峰から愛宕山に愛宕権現を移転するとき、一時仮遷宮していた時に建てられたのが始まりと言われる。江戸時代以前の神仏習合の名残であろう。先述の「然がここに釈迦像の安置を計画した背景には愛宕山の存在を比叡山に対抗する存在になぞられていたことがあるとされる。ちなみに愛宕山は清涼寺の裏山になる。
今の建物は1716年(正徳5年)のもの。
聖徳太子殿
別に清涼寺自体は聖徳太子とは全く関係ないのだがヾ(--;)、昭和になってから法隆寺夢殿を模して建てられた。中は見学できません。
多宝塔(写真はこちら)
1700年(元禄13年)、江戸護国寺に再建勧進の出開帳に出たとき、その入場料と寄付金で1706年(元禄16年)建てられた物。京都府指定文化財。
源融の墓
この寺の前身寺院「棲霞寺」の建立者とも言える源融の墓と言われているものです。多宝塔の裏側にあり、ちょっと分かりにくいかも。
形式は宝筐印塔。…源融の生きていた平安時代初期にはとうてい下がらないかと思われます(^^;)古そうですけどね。
ちなみにこの墓については棲霞寺開山であり、大覚寺とも関わりが深い悲劇の廃太子・恒貞親王(恒寂法親王)の物ではないかという伝えもあります。
檀林皇后・橘嘉智子の墓
…と寺伝で伝わっているものです。平安時代中頃の石塔といわれています。
江戸時代以前はここが「檀林皇后陵」とされて法要も行われていましたが、明治時代に別の場所が檀林皇后陵に選定され、ここは外れました。
ちなみに檀林皇后は実の孫に当たる恒貞親王の排斥に関わっていたとも言われています。もし、先述の「源融の墓」が恒貞親王の墓だとしたら実の祖母と孫で敵どおしが墓は隣同士という何とも皮肉な組み合わせになります。
嵯峨天皇の墓
…と寺伝で伝わっているものです。平安時代末頃の宝筐印塔といわれています。
江戸時代以前はここが「嵯峨天皇陵」とされて法要も行われていましたが、明治時代に別の場所が嵯峨天皇陵に選定され、ここは外れました。
「然上人墓
嵯峨天皇夫妻墓のすぐ北側に別区画で建っている清涼寺の開山・「然の墓。
本来は別の場所にあったが、1985年(昭和60年)に移転。墓石は鎌倉時代の石幢。
豊臣秀頼の首塚(?) 写真はこちら(本堂と隣のお堂の間のスペースにある石囲い)
寺のパンフによると「昭和55年(1980年)、大坂城三の丸跡地の発掘現場から出土した豊臣秀頼公の首を昭和58年(1983年)に秀頼公再興の由緒を持つ当時に納められたもので、首には介錯のあとがある」
…とのことです。いろいろつっこみたい方はお寺に直接お願いしますヾ(^^;)
源昇の墓
経蔵の手前にある池の畔にあるかなり立派な宝筐印塔。
石碑の説明では「源融の息子・昇の墓」とされているが、寺パンフの説明には何も書いてない(^^;)
一切経蔵 ※クリックすると拡大写真
今の建物は江戸時代中期に再建された物で、中に「一切経」を納めた巨大な六角形の厨子「輪蔵」がある。この厨子はぐるっと回転させることができ、1回転で一切経をすべて読んだのと同じ功徳があるとされている。が、外から「輪蔵」をうかがうことは出来ない_(。_゜)/
阿弥陀堂(写真はありません<(_ _)> )
源融の供養のため「棲霞寺」が建立された時、一番最初に建てた建物である。なので、これこそが実は清涼寺で一番大事な建物かも知れない。しかし、現在は後から招来された釈迦如来像に人気を取られて、建物の場所もやや奥まったところにある。現在の建物は幕末の1863年(文久3年)の再建。中の本尊・阿弥陀如来三尊は最初に納められた物で国宝、現在は霊宝館で期間限定で見ることが出来る。
本堂
清涼寺の本尊・国宝「釈迦如来」を奉じる本堂…だが、何回も焼けてしまい、今の建物は徳川綱吉の母・桂昌院の寄付で1701年(元禄14年)再建された物。
本堂からは有料ゾーンになっております。本堂に上がって料金を払い、奥も拝見してみましょう。
写真撮影できないので詳細がお伝えできないのが残念ですが、霊宝殿に入りきらない宝物が、かなーり無造作に展示されております。古そうなショーケースで、空調管理も効いてないようですが…いいのかこれ。
その中の一部
簡単な説明しか付いてなかったのですが、慶応元年に島津家から寄付された物だそうです。
これらは本堂の裏側で特に無造作に展示されていたのでついつい撮影してしまいましたごめんなさい
他にも
- 狩野元信(狩野永徳の父)が書いた清涼寺の絵巻(蛍光灯でがんがんに照らされてましたが…)
- 桂昌院が寄付した什品や袈裟などいろいろ(もちろんばっちり蛍光灯で分かりやすく…)
…など、どこまでほんとかうそか「清涼寺」というブランドつきなだけに判別不能な宝物が無造作に…でも蛍光灯はやめた方がいいと思うんですが(特に絵や衣料品の類)。
その本堂の裏側から、庫裏へ行く渡り廊下に出られます。
ここの御庭は 意外な絶景
桂昌院が本堂を寄付した際、元禄頃の作庭といわれています。
真ん中の十三重石塔は昭和の建立で「忠霊塔」と言われています。世界各地の戦場の石が供養のために納められているそうです。
おそらく寺パンフの説明では納骨堂っぽいのだが?
弁天堂 ※クリックすると拡大写真
江戸時代後期に作られたのではないかとされる以外、誰が何のために建てたのか不詳な謎の建物。中にはいることはできません。
方丈前の庭
現在残っているのは享保年間(1716〜1735年)の再建だが、最初に建てられたのは慶長頃で、徳川家康と側室・おちかの方が息女・松姫の供養のために寄進したことに始まるとされる。庭はその当時の物で、小堀遠州の作庭といわれている。
その他霊宝館も見たかったのですが、今日の本来の目的の場所に行く時間が無くなってきたので、次回以降におあづけ(T-T)
今日のメインイベント?に向かいます。
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